墳丘南側の墳裾を確認する調査では、人頭大から1mを超えるような河原石が列石の南側に配置されており、この部分はちょうど浅い溝状にくぼんだ構造となっています。現在でも湧水があり、この河原石は墳丘構築以前に地固めを目的とした
墳丘外施設と考えられ、一種の土木工事として配置された可能性があります。つまり、「河原石の配置」→「列石(裾石)の配置」→「盛土」といった、墳丘構築の順序をこれまでの調査とあわせて窺い知ることができます。
これにより、削平により墳裾の確定が困難な東側を除いた、墳丘の全体像が明らかになってきました。その規模は周溝の内側と列石で示される墳裾で
南北46mを測り、周溝や地固めなどの墳丘外施設を含めると50m以上の規模となります。また、盛土や石室の状況から想定すると
東西は約60m〜70mを測り、非常に
巨大な長方形墳であることが、明らかになりました。これは四国最大規模であることは言うまでもなく、
全国各地の終末期古墳の中でも屈指の規模であり、この古墳に極めて重要な人物が葬られたであろうことを示唆しています。
2号石室は天井石が抜き取られ、転用されていることもあり、半埋没状態でしたが、その規模は
全長11.4mを誇る1号石室を遥かに凌ぐ規模であることが露出している天井石から容易に想定できました。しかし、その奥壁が未確認であったため、正確な全長に関しては明らかになっていませんでした。
そこで、奥壁側に調査区を設け、調査を実施しました。残念ながら奥壁の石材そのものは確認できませんでしたが、石室構築に伴うと考えられる盛土の層を確認することができました。この
層状の盛土(所謂「版築」)は他の断面の調査でも確認でき、石室を含む墳丘の上段部分は殆どがこの盛土により構成されているものと考えられます。この層が、ある地点から垂直に形成されている状況が調査区で確認できました。これは奥壁の背面を支える役割を担った盛土と考えられ、この位置に奥壁が存在したことを示唆していると考えらます。これにより、奥壁の大まかな位置を想定することができます。
現在残存している天井石とあわせて考えると、最も小さく見積もっても
全長約14.3mを測ります。また、想定床面から天井石を計測すると、
玄室の高さは約3.8mを測り、いずれも
四国屈指の規模であり、今回の調査は2号石室のごく一部を対象とした調査ではありますが、
壮大な石室の存在を窺い知ると同時に被葬者像の再評価を迫るものでありました。